濃尾大地震とZ項

 

 「日本人自らの手で緯度観測をするのでなければ、日本では引き受けかねる」
と、日本代表の大森房吉(木村記念館に展示している大森式地震計の考案者)は
主張した。1895年 9月ベルリンで開催された第11回国際測地学協会総会で、国際
緯度観測事業(ILS)の開始を前に、その基本方針が話し合われた。当時の日
本の科学水準を評価してみた外国の科学者からは「日本における観測にはドイツ
人を派遣しよう」との提案があったのである。それに対し大森はなぜにこうまで
言い切れたのか。
 1891年10月、日本の内陸地震としては最大の濃尾大地震が起こった。この地震
はマグニチュード(M)8.0で、1923年 9月の関東大地震のM7.9、1995年 1月の阪神
・淡路大地震のM7.2に比べても大きい。被害の大きさもさることながら、岐阜県
根尾谷を通る大断層を生じ、水鳥で上下に6m、水平に2mずれたと理科年表に載っ
ている。これは地震直後に現地を調査した田中館愛橘によって発見されたもので
ある。
 翌1892年、地震で生ずる災害を軽減することを目的として、文部省内に震災予
防調査会が設置され、全国的に地磁気や重力の測量が実施された。さらに1895年、
同じ目的で東京麻布の東京天文台において天頂儀による緯度変化の観測も始めら
れた。これには星学科を卒業して大学院にいた木村栄にその任が当たった。木村
は大学にいたとき既に東京天文台で実地天文学として観測の練習を積んでいた。
もちろん木村による観測は正確そのものであったという。このような下地があっ
たので大森は斯くの如くの発言ができたのだろう。
 ILS開始草々、ドイツにおいた中央局から水沢の観測値にクレームがついた。
このことにより苦悩のどん底にいた木村は、ついにz項を発見したのであった。
当時中央局から「z項の取り扱いをいい加減にされては困る」と心配した田中館
の助言のもとに、z項の論文をドイツとアメリカの専門誌に同時に発表しそれか
ら中央局に報告した。しかし田中館の心配をよそに、中央局では緯度変化の数式
にこのz項をスンナリ受け入れたのは、これも下地があった。
 1898年10月ストウットガルト(ドイツ)で開催された第12回国際測地学協会総
会に田中館と木村が出席した。このときILSのスタートにあたって緯度観測星
の選定作業があった。ここで若い木村の選択法が採用され、しかもそのプログラ
ム作成が木村に依頼されたとのことである、そのとき既に、木村の非凡な頭脳は
周囲の認めるところとなっていたのである。だからz項の発見を知らされた中央
局長は「あの木村、なかなかやるわい」と思ったとしても、至極当然のことのよ
うな気がする。
 「z項の発見は、木村の偉大なる業績であることには間違いないが、観測のパ
ートナーであった中野徳郎や恩師の田中館の協力も忘れてはならないことである」
といわれている。最初にz項の話の連絡を受けた田中館は、風邪気味で休んでい
たがすぐに夜行列車で来水し、到着するやいなや調べに入ったらしい。また田中
館は、中央局が何のためらいもなくz項を採用されたことに対し「さすがドイツ
だ」と、ドイツ人の寛容さに感嘆したともいわれている。
 ここでz項の解釈について、緯度観測所時代の印刷物をたよりに順を追って見
てみよう。
 先ず1920年代には、(1)地球形状軸の位置の変化、(2)地球内部の物質の移動に
伴う重力方向の変化、(3)日本列島全体を含むような地盤の移動、の3つである。
つまり地球自体に起因すると考えられていた。それが1950年代(木村は1943年に
死去)には方向が大きく変わり、大部分は気象学的要素であり、一部に器械的誤
差や星の位置の誤差が考えられていた。1960年代後半には、天文常数系が大部分
をしめ、残りは地球の形状変化や潮汐および気象学的要素となっている。まもな
く1970年、流体核共鳴の効果であることが突き止められて、全容が解明されるに
至った。                          <菊地直吉>