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観測所の歴史

観測所の歴史

国際観測事業の観測所として設立された緯度観測所にとって、その歴史を通じて国際共同観測は根幹であり、観測局としてだけでなく、万国緯度観測事業(ILS:International Latitude Service)と、国際極運動観測事業(IPMS:International Polar Motion Service)という二つの国際事業の中央局としても世界の中心で活躍しました。

国際共同観測事業の設立

緯度変化の予言

18世紀前半に地球が赤道部のふくらんだ回転楕円体であることがわかり、オイラーはそのような楕円体の自転軸は楕円体に対して周期的な運動(極運動)をし、緯度が変化すること、その周期は地球が固い場合には304日であることを予言しました。

緯度変化の発見

緯度変化は小さいので、やっと19世紀末になって、キュストナーにより発見され、さらにチャンドラーにより、予言とは異なった427日の周期的な変化をしていることも発見されました。この周期は、地球がやわらかで変形していることを示しています。測地学上の大問題です。

ILSの設立

大問題であると認識されたものの、わずかな変化を正確に観測するには、共通する星位置誤差などの影響を避けるために同一緯度線上で同じ方法を用いた観測をする必要がありました。1894年に観測網の設立が万国測地学協会において提議され、1899年には北緯39度8分線上に並ぶ6カ所の観測所とドイツのポツダムに置かれた中央局による共同観測事業が発足しました。

観測所決定の経緯

日本の必要性

緯度変化から精度良く極運動を決定するためには、観測所間の経度差を等間隔に近づけ、4局とすると90度間隔が理想的です。陸の分布から、ユーラシア大陸に2カ所、北アメリカに2カ所となります。19世紀末当時、ユーラシア大陸の東端で観測所を設置可能なのは日本だけでした。日本は絶対に必要な位置にあったのです。

国内の候補地

万国測地学協会は、幾何学的配置だけでなく、社会及び自然条件をも考慮して観測所位置を選定しました。日本では、当初白河が候補でしたが、水沢、小田原、福島、仙台、秋田、青森も検討され、小田原は地震が多いこと、秋田、青森は冬の天候が悪いことから除外されました。

外国の候補地

ヨーロッパではイタリアのどこに置くかが問題でした。仙台以南に対応する場所はシチリア島であり、地震・火山活動が活発で地盤が不安定であること、マラリアや熱病が流行していることから、除外され、水沢の緯度線上にあるサルディニア島南端のカリアリに決まりました。しかし、カリアリの予定地付近では熱病が流行していたので、結局、サルディニア島近くの小島(サンピエトロ島)にあるカルロフォルテとなりました。北米の観測所は東海岸のゲイザーズバーグと西海岸のユカイアとなりました。

観測局決定

その後、ロシアから中央アジアのチャルジュイ、アメリカから中部のシンシナチの参加の申し出があり、計6観測所で発足しました。

国際緯度観測事業観測網
国際緯度観測事業観測網

水沢の活躍

連続観測

水沢はILSの開始から1987年の眼視観測の終了まで、中断することなく観測を行いました。特に、第2次世界大戦時下の厳しい状況にも拘わらず、所長を先頭に連続夜間観測を守り抜きました。戦後の進駐軍もこれには驚嘆しました。

地震観測

水沢で緯度観測を始めて1年半ほどたった1901年中に試験的な地震観測を始め、翌1902年に正式化されました。

地震の観測は、地球全体の変動である極運動を引き起こす原因を探るために行われました。観測を始めた当時は、地球の基本的な内部構造もよく知られていませんでした。たとえば、流体核の半径が推定されたのは1913年、地震波の速度が決定されたのは1931年です。当時は国内外の地震観測点は少なく、その中で天文観測を行っていた水沢は時刻の精度も良く、世界的に信頼された観測点でした。

水沢で地震観測を始めたきっかけには、緯度観測所設立直前の1896年6月に発生した明治三陸地震津波(死者約22000名)、同年8月の陸羽地震(死者200名余り)による地震研究の高まりもあったと思われます。

ILS中央局

当初から中央局を引き受けてきたドイツは第一次大戦の敗戦により、中央局を担当できなくなってしまいました。代わってそれまでの実績が高く評価され、1922年から1936年まで水沢が中央局を引き受け、木村が局長となりました。同時に、木村は国際天文学連合第19委員会(緯度変化)の委員長にも就任し、文字通り世界の地球回転研究をリードすることとなりました。

中央局の活動

中央局の主要な任務は、観測プログラムを作成して各観測所に配布すること、緯度観測結果の整理をし、極の位置を計算し、結果を報告することです。木村の努力は1940年に出版された事業報告第8巻に結実しました。Z項の正しい表現もこの中に与えられています。このために行った膨大な手計算の記録は今も残っています。

観測網の拡大

木村の就任前に、資金難からゲイザーズバーグとシンシナチは観測を止めていました。また、チャルジュイも洪水のために閉鎖され、就任時には観測所は3つにまで減っていました。木村は弱体化した観測網を強化するため、中断した観測所の再開及び南半球の観測網構築に尽力しました。その甲斐あって、ゲイザーズバーグが再開され、チャルジュイに代わり近くのキタブに新しい観測所が開設されました。また、南緯34度線上のラプラタ及びアデレード、南緯7度のバタビアで観測が開始されました。特に、アデレードには水沢の眼視天頂儀1号機を貸与し、バタビアには観測者を派遣しました。しかしながら、南半球の3観測所は社会情勢の変化もあって、短命に終わってしまいました。これ以後5観測所体制が最後まで続きました。

観測網の変遷
観測網の変遷
1959年の構内
1959年の構内
北緯39度8分線上に並んだ観測室群(左から赤道儀室、PZT観測室、旧天頂儀室、新天頂儀室、微温度差計器室、浮遊天頂儀室)が見えます。
1980年代の観測室
1980年代の観測室
手前の高い観測室は全自動アストロラーブ観測室で昭和54年度に、奥の高い観測室は第3PZT観測室で昭和56年度にそれぞれ建設されました。

水沢の観測所の歴代の所長

1899年から現在までの、水沢の観測所における歴代所長のリストを示します。(2021年3月19日時点)

歴代所長リスト

  1. 木村 榮  1899年9月~1920年10月(臨時緯度観測所所長)
          1920年10月~1941年4月(緯度観測所長)
  2. 川崎 俊一 1941年4月~1943年1月(緯度観測所長)
  3. 池田 徹郎 1943年1月~10月(緯度観測所事務取扱)
          1943年10月~1963年5月(緯度観測所長)
  4. 奥田 豊三 1963年5月~1976年6月(緯度観測所長)
  5. 坪川 家恒 1976年6月~1986年3月(緯度観測所長)
  6. 細山 謙之輔 1986年4月~1988年6月(緯度観測所事務取扱)
  7. 若生康二郎 1988年7月~1991年3月(国立天文台地球回転研究系主幹)
  8. 笹尾 哲夫 1991年4月~1993年3月(国立天文台地球回転研究系主幹)
  9. 横山 紘一 1993年4月~2000年3月(国立天文台地球回転研究系主幹)
  10. 河野 宜之 2000年4月~2002年3月(国立天文台地球回転研究系主幹)
  11. 真鍋 盛二 2002年4月~2004年3月(国立天文台地球回転研究系主幹)、 
          2004年4月~2006年3月(水沢観測所長)
  12. 小林 秀行 2006年4月~2010年3月(水沢VERA観測所所長)
  13. 川口 則幸 2010年4月~2014年3月(水沢VLBI観測所所長)
  14. 小林 秀行 2014年4月~2014年11月(水沢VLBI観測所所長事務取扱)
  15. 高見 英樹 2014年12月~2015年3月(水沢VLBI観測所所長事務取扱)
  16. 本間 希樹 2015年4月~現在(水沢VLBI観測所所長)

詳細説明:

  • 事務取扱も含める、
  • 1988年7月~2004年3月は、国立天文台への改組に伴い、主に地球回転研究系と水沢観測センターが併設され、地球回転研究系主幹が全体の所長の役割を担った。
  • 2004年4月~2006年3月は、法人化に伴う組織改革により、水沢観測所とVERA観測所等が併設され、水沢観測所長が全体の所長としての役割を担った。
  • 2006年4月~2010年3月 水沢VERA観測所とRISE月探査プロジェクトが併設され、水沢VERA観測所所長が全体の所長としての役割を担った。
  • 2010年4月~ 2012年3月 水沢VLBI観測所とRISE月探査プロジェクトが併設され、水沢VLBI観測所所長が全体の所長としての役割を担った。
  • 2012年4月~ 2019年3月 水沢VLBI観測所とRISE月惑星探査検討室が併設され、水沢VLBI観測所所長が全体の所長としての役割を担った。
  • 2019年4月~ 水沢VLBI観測所とRISE月惑星探査プロジェクトが併設され、水沢VLBI観測所所長が全体の所長としての役割を担っている。

以上

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