MMXにおける擬周回軌道(QSO)とは

火星衛星探査計画(MMX)ミッションでは、火星の2つの衛星フォボスとダイモスを調査します。特に、内側の衛星であるフォボスに対しては、表面物質のサンプルリターンに加え、接近観測による詳細な探査が予定されています。
フォボス近傍では、MMX探査機は、擬周回軌道(Quasi-Satellite Orbit、QSO)という軌道をとり、ここから各種の搭載機器によるフォボスのリモートセンシング観測が行われます。QSOは、フォボスの軌道とは少し異なる軌道で火星を周回する軌道で、フォボスの表面にいる人から見た場合には探査機がフォボスを周回しているように見えるという軌道です(図1)。
 

図1:擬周回軌道

図1:QSOの概念図。惑星(火星):グレー、衛星(フォボス):オレンジ、探査機:青。

 

さて、ここで、「なぜQSOのような特殊な軌道を使用する必要があるのか。地球を観測する人工衛星のような周回軌道でいいのではないか、あるいは、はやぶさ2がリュウグウを観測したときのように、フォボスに対して1方向にとどまれば、時間とともにフォボスが自転し、全体を観測することができるのではないか。」(図2)と疑問に思われた方もいるかもしれません。これを理解するためには、フォボスという天体の特性と、その周辺の力学的な環境の特性を知る必要があります。

 

図2

図2:天体を観測する軌道の例。

 

フォボスが火星の周りを周回する軌道は円軌道に近い(離心率が小さい)こと、探査機の質量は2つの天体に比べて無視できるほど小さいことから、円制限三体問題(circular restricted three-body problem)として扱うことができます。この場合、探査機が火星とフォボスに及ぼす重力の影響が無視できるため、火星とフォボスの運動は二体問題として扱うことができ、解析的に解くことができます。そして、火星とフォボスの2つの天体の重力の影響を受けて運動する探査機の軌道を求めるという問題に帰着できます。

さて、ここで、フォボスのヒル球 (Hill sphere)を考えてみます。この球の内側では、フォボスの重力による影響が支配的であり、火星からの力を受けながらフォボスの周りを運動する探査機は、フォボスの周りをいつまでも周回し続けることができます。そうであれば地球を周回する人工衛星のように、フォボスを観測できそうです。ところが、フォボスの場合、このヒル球の半径が非常に小さいという特徴があります。これは、フォボスが火星から近いことと、火星に対するフォボスの質量が小さいことに起因します。フォボスのヒル球の半径(フォボスの中心からの距離)rHは次の式で計算できます。

  数式

ここで、μは、火星に対するフォボスの質量比(1.66 ×10‐8)、aはフォボスが火星を周回する公転軌道の半径(9376 km)です。rHは16.58 kmと計算されます。フォボスの平均半径は11.27 kmですので、探査機が周回を続けるためには、地表から数kmという非常に低い高度の軌道でなければならないことがわかります。このような極端な低軌道では、予期せぬアクシデントで探査機がフォボスに衝突してしまう可能性もあり、非常に危険です。したがって、フォボスの周りを周回軌道で回り続けることは現実的に難しいと考えられます。

危険性を防ぐためある程度フォボスに対して高度を高くすると、安全性は上がりますが、ヒル球の外側に出てしまい、探査機はもはやフォボスを周回し続けることはできなくなり、単に火星の周りを周回する軌道となります。火星周回軌道からフォボスを観測するにはどうしたら良いでしょうか。常にフォボスを観測するには、火星の周りをフォボスと同じ周期で回るのがよさそうです。フォボスと同じ火星周回軌道上で、少し先(あるいは後)を進む探査機から、フォボスを観測するというアイデアはどうでしょうか。リュウグウ近傍から観測するはやぶさ2のように、探査機はフォボスに対して1つの方向にとどまることができ、一見よさそうに見えますが、この場合、常にフォボスの片面しか観測できないという問題が生じます。というのも、フォボスは同期回転をしており、常に同じ面を火星側に向けているためです(図3)。

 

図3

図3:フォボスと探査機が同じ軌道を運動する場合。

 

ここで、探査機の軌道全体を、フォボスの軌道から少しずらしてみます。すると図4のように、時刻によって探査機の軌道がフォボス軌道の内側に来たり、外側に来たりするようになり、探査機からフォボスを見る方向が変化します。時間を連続してみると、図1に示したような軌道になり、火星を一周するとフォボスのすべての面を観測することができます。フォボスの火星周りの公転軌道とは焦点がずれているため、長期の軌道維持は難しいですが、短期的には安定であり、探査機は比較的容易な軌道制御を時々行うことによって、フォボス近傍100 km以内に数週間程度とどまることが可能です。以上がフォボスの観測にQSOを使用する理由です。

 

 

図4

図4:図3の探査機軌道をずらした場合。
 

ところで、探査機の燃料節約や制御ミスを防ぐという観点からは、できるだけ長い間メンテナンスをする必要のない安定な軌道が望まれます。フォボスの観測では、フォボスと火星の距離に比べ、フォボスと探査機の距離は遥かに近くにあります。このような条件のもとで、フォボス、火星、探査機を質点と近似し、重力以外の他の力が働かないと仮定した場合、フォボスを中心として見て、火星周回軌道上のフォボスの進行方向と火星方向の比が2:1になる軌道(図5)を選ぶと、安定な閉じた軌道(一定時間を経た後に同じ場所に戻ってくる周期的な軌道)となることが知られています。

 

図5

図5:フォボス(オレンジ)を中心として見た時に、フォボスの進行方向:火星方向 = 2:1の楕円となる軌道。


ただし、フォボスは火星に対して常に同じ方向を向いている(図3)ため、図5のような軌道では、常に高高度から観測する場所と低高度から観測する場所が固定され、全球を均一な条件で観測できないという問題があります。安定性は劣りますが、フォボスに対して探査機を近づけていくと、フォボスの重力の影響がより強くなり、探査機の軌道はより円に近くなっていきます。MMXでは、高度の異なるいくつかのQSOからの観測が実施される予定です。

さて、現実のフォボス周りの力学環境はもう少し複雑です。実際のフォボスの公転軌道は完全な円軌道ではありません。また、フォボスや火星の形状や質量分布は均一でないことによる重力の高次項や、他の天体からの引力、太陽輻射による圧力などが探査機の軌道に影響を及ぼします。この場合、できるだけ長期に安定な軌道を探すには、探査機の初期状態ベクトル(ある時刻での位置、速度)をさまざまに変えて、数値的に調査をすることが必要となります。

さらに、現実の探査ミッションでは、探査機側の制約、すなわち、太陽電池パドルからの電力供給のための制約やバッテリー残量の制約、動作温度に関わる熱的な制約条件などを考慮する必要もあります。また、搭載機器の観測要件として、例えば太陽の入射角の制約なども考慮しなければならず、実際の軌道の設計、運用はより複雑になります。

フォボスの観測にQSOを使用するというアイデア自体は、数学的、物理学的な関心事として古くから研究されてきましたが、実際の宇宙探査ミッションでの使用はまだ実現していません。MMXはQSOを使用してフォボスを探査する初めてのミッションであり、天体の起源を明らかにするという科学的な観点以外からも、ミッションの成功に期待が寄せられています。

Zamaro, M., Natural and Artificial Orbits around the Martian Moon Phobos, PhD thesis, University Of Strathclyde, https://strathprints.strath.ac.uk/55238/ (2015).
Martin, J., and Centuori, S., Quasi-Satellite Orbits around Phobos for the Sample Return Mission, ISTS-2017-d-009, https://issfd.org/ISSFD_2017/paper/ISTS-2017-d-009__ISSFD-2017-009.pdf (2017).
大木優介, 複合領域最適化による火星衛星回りの疑周回軌道設計, 第64回自動制御連合講演会, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jacc/64/0/64_377/_pdf (2021).
池田人, 近傍運用シナリオの検討, https://mmx-news.isas.jaxa.jp/?p=454&lang=ja (2018).

(文責 山本)